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1:デザイナー養成を開始、
時代の要請にぴったり
2:誰もしないことをやれ
「常識外れ」で活気呼ぶ
3:校舎は便利な場所へ
--感性は都市が育てる
4:新築ラッシュ本番に
名古屋校舎は超高層
5:就職率100%の理由
目的意識が創造力生む
6:パリ校、開校10年
次の海外校はニューヨーク

人物略歴  
たに・まさる
 1936年12月、名古屋市生まれ。67歳。24歳で日本の服飾デザイナーの草分けジョオジ・岡氏に弟子入り、4年間服飾全般をたたき込まれる。66年、名古屋モード学園を開校。以後、名古屋、大阪、東京で専門学校を次々に設立。弟の粕谷俊彦理事長(60)と二人三脚で運営。東京で妻と2人暮らし。現在も教壇に立ち、毎週名古屋、大阪に新幹線通勤。
[1] デザイナー養成を開始、時代の要請にぴったり  
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 ファッションの本場、フランスの航空会社主催のデザインコンテスト・プロデザイン部門で1965年の特賞を受賞した新進気鋭の服飾デザイナーがいた。28歳の谷まさる・現モード学園学長だ。マスコミも取り上げ、業界からは引く手あまた。受賞のキャリアを生かして服飾デザインの主流だったオートクチュール(高級注文服)のデザイナーへの道を進む、と思われていた。ところが、本人は、それでは飽き足らず全く別のことを考え、走り始める。

 当時既製服は「安かろう、悪かろう」とされていたが、ミニスカート旋風が日本にも吹き荒れ、既製服時代がすぐ近くに来ていると確信していた谷さんは「デザイナーといっても、オートクチュール、オーダーではごく一部の人にしか喜んでもらえない。自分が既製服のデザインを手掛けようにも、そういう場がなかった。で、いっそのことデザイナー養成学校を、とひらめいた」と話す。考えが飛躍しているように思えるが、本人には当然の帰結だった。

 場所は名古屋と決めていた。東京在住だったが、名古屋は出身地でなじみがあることに加え、「デザイナー仲間が時々東京から名古屋地区にアルバイトに行っていたんです。話を聞くと、たいしたこともやってないのに、報酬がよかった。そんな景気のいいイメージも大きかったかな」と、谷さんは冗談めかす。が、名古屋周辺には一宮、岐阜両市などに、今でいうアパレル関連産業が集積していることが、その後の学校の飛躍につながっていく。

 開校は決めたものの、当時は洋裁学校が全盛で、プロのデザイナー養成という学校は皆無。立地は通学に利便な一等地で冷暖房完備、生徒募集にテレビCMを流す、など当時としては常識外れの学校設立計画。谷さんは「異色の学校を目指しましたから相談しても皆反対。そんな高い家賃の場所で採算が取れるはずがない、とね。賛成したのは今、理事長をしている弟だけでした」と言う。

 しかし、2人は確信を持って突き進み、66年4月、計画通り名古屋駅前に新築された菱信ビル3階に名古屋モード学園を開校する。定員500人。開校直前まで大幅な定員割れ状態だったが、洋裁学校からの“転校組”もあり、定員ぎりぎりでスタート出来た。

 開校時こそ生徒集めに苦労したが、その後は順風満帆。谷さんは「時代の要請にぴったりだったんでしょうね」と言うが、時代の流れに乗り、自ら流れを加速させていくことになる。

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 名古屋、東京、大阪の3都市にモード学園3校、コンピューター総合学園HAL2校、医療専門学校1校の計6校。モード学園パリ校(クレアポール)も。講師も含め教職員約850人。生徒総数は1万5000人を超える。

文・栗原茂実 写真・伊藤俊文>

毎日新聞中部本社版 [朝刊] 2004/11/23掲載
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